無題

初めてお泊りになったお客さまに「南風は民宿ですか?旅館ですか?」と、よくたずねられます。
半世紀前の創業時は民宿南風でのスタートでした。
実は自分の感覚ではどちらもしっくりこないのです。
「どちらかはっきりしろ」と言われれば法的な営業許可や消防法のセーフティーマーク取得設備は旅館業で、ネットのお宿紹介サイトには創業時の民宿で登録しています、また地元の区分では民宿組合に入っています。

篠島で最初に民宿の看板あげたのが民宿南風でした。今でこそ民宿と言えばある程度のイメージは出来ていますが、当時は初めて聞く言葉でした。

創業時の先代の心意気を大切にし、時の移り変わりとともにかたちを変えるお客さまのニーズ・・・篠島への旅で何を求めているのかという自問のなかで未だに整理出来ないのが宿の区分けです。自分では「宿」の一文字が一番しっくり来るのです。

現状は「どちらでも」というのが正直なところで、民宿でも旅館でも、お越しいただけたお客さまの判断におまかせしたいと思っています。



親父が旅立って40日あまりがたちました。6月に癌告知を受けてから懸命の治療と看護も空しく8月6日未明に永久の別れとなりました。

闘病中に「このまま死んでも何も思い残す事は無い、幸せな一生だった」と言っていたのは残る者たちへの親父の最後の思いやりであったと思います。

思い残す事が無いわけがない。五人の孫もまっとうに自立し、二人が結婚し「こいつが南風の4代目だ」と親父が節くれ立った手で生後間もない曾孫を幸せそうに抱くのを見て必死に涙をこらえました。お客さまに喜んでもらえるのがうれしくて、美味しいと言ってもらえるのがうれしくて、働いて働いて働き通した一生でした。多くのお客さまに贔屓にしていただき、小さいながらも宿はずっと順調で、「家族が皆元気で働けて、ウチほど幸せな家族はないぞ」が口癖でした。その幸せの中、たった一度の入院生活のまま、ついに愛した南風に帰ることなく旅立って行きました。

悔しかったです。無念でした。「ダメかもしれない」と覚悟した最後の夜は、意識が無くなった親父を抱きしめ「もう我慢しなくてもいいぞ」「辛い抗ガン剤ももうやらない」と何度も何度も言いきかせながら泣きじゃくりました。友人や釣り仲間にも恵まれ「じいじ」「南風丸」と可愛がられ、余生は大好きな釣りを楽しんだり、曾孫の守りですごしてほしいと思っていたのに、あわただしすぎる旅立ちでした。

家族が現実を受け入れられない状態でも通夜や葬儀は進んでいきました。ただ予想をはるかに越えた多くの人の涙や弔問をいただき、にぎやかな雰囲気が好きであった親父もきっとうれしかったと思います。親父を見送っていただいた皆様には心から感謝しています。

火葬場で煙突からあがる煙が消え「ああ、もう俺には二度と親父の声は聞こえない」と思った時に、初めて蝉の鳴き声が耳に入ってきました。夏に入ってからずっと鳴いていたはずなのに、まったく聞こえませんでした。それほど我を忘れていた夏でした。「お客さまに悲しいそぶりは見せてはいけない」と、家族が耐えた夏でした。それでも一度だけ、お客さまに「こんな愛想が悪い宿は初めてです」と言われた時は本当に辛かったです。分かっていてもいくら涙をかくしていてもお客さまには宿の心は伝わるものだと改めて思い知りました。今は、ただただお詫びするしかありません。

先日、看護で長く釣りに出る事なく繋ぎっぱなしだった南風丸を上架し船底掃除や遺品を整理しました。よく二人で釣りにでました。大物とのやりとり、潮待ち時間の釣り仲間との馬鹿話など。本当に楽しそうな顔の親父が思い出されます。親父の仕掛け、親父の大きめのコーヒーカップ、親父の合羽、操舵室助手席の親父のクッション、親父の老眼鏡、最新のGPSを使うのが苦手で釣りポイントの山立てを小さな文字でびっしり書き込んだ親父の手帳、すべてがもう二度と使われる事はありません。楽しかった思い出は時に残酷なものです。また涙でひとつひとつの品を「楽しかったなあ」と親父に話しかけながら、すべて船からおろしました。




家族で育てて来た南風が民宿か旅館か、親父と話すことはありませんでした。
でも義南碩風居士と名をかえた親父はきっと言うでしょう。


「お客さまに喜んでもらえればどちらでもいい」と。




2010年 9月 18日 | People



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